東京青山68会第3回ウォーキング 結果報告           齋藤健彌( 68 回)

 

新緑の5月21日、東京の下町深川から森下、両国をめぐるウォーキングが、東京通の阿部尚武君(元都庁)の企画・案内で開催された。午前11時、門前仲町駅前のポスト横に集合、おそらく江戸時代の近江商人の末裔であろう伊勢屋で、昼食の弁当として名物深川飯などを購入して、15名で出発した。

まず富岡八幡宮を訪ねた。目聡く、昭和16年生まれは八方除との看板を見つけ、とりあえずお参りし、八方塞がりの解消を願った。続いて東京都最古の鉄橋を渡り、深川不動尊、芭蕉の奥の細道の出発点採茶庵跡を経て、清澄庭園へ。三つの島と名石を配した池と、大きな鯉、亀、鷺、を見ながら昼食。さらに隅田川沿いに北上し、芭蕉記念館へ、「荒海や佐渡に・・・」の句を読みながら、故郷の海岸を思い出す一幕もあり。続いて本所吉良邸跡へ、赤穂浪士に斬られた吉良の家来が20名とのことを発見、47士との扱いの差に哀れを感じ祠にお参りを、忠臣蔵の映画ではもっと斬られているねとの感想あり、またここから泉岳寺まで何キロありや、何時間かかったか議論あり、当時は建物もなく直線的に歩けたとのことで、約3時間ということで妥協。両国まで来ると、本場所中でもあり相撲取りを散見、メタボのお腹は、彼らに比べればまだ大丈夫と変な比較をして自己満足。国技館通りの力士像にある横綱の手形に手を合わせ、子供時代に声援を送った、千代の山、鏡里、吉葉山、に思いを巡らせた。

安田庭園を過ぎると横綱公園があり、高さ40メートル程の3重の塔をもつ荘厳な東京都慰霊堂がある。ここは、元陸軍被服廠があった場所とのことで、1923年9月1日の関東大震災では、震災の死亡者の約半数 3 万8千人がここで亡くなったといわれている。

災害は忘れたころにやってくると言われているが、我々に取っては昭和39年の新潟地震、最近の中越地震、中越沖地震と、忘れる間もない。先週の四川大地震の被害状況をテレビで見て、地震の恐ろしさ、被害の大きさを再認識させられた。地震は防ぐことは出来ないが、被害を最小にする手立てはあるはずである。さらに重要なことは、復興するための国力を蓄えなくてはならないことであろう。我々も前期高齢者の仲間に入ったが、まだ子や孫のため何かやれることがあるはずと思いながら、講堂の慰霊塔に、蝋燭を立て線香をあげて、冥福を祈った。

16,000 歩のウォーキングの最後は、ビアステーション両国で、乾杯。隣の国技館の相撲をテレビ観戦、好調な琴欧州が朝青龍を負かした一番に拍手しながら大いに盛り上がった。次回は、10月22日、横浜下町をテーマに中村輝夫君が企画することを決定し、散会した。

(参加者:阿部尚武、小林勲、近藤貞夫夫妻&友達、齋藤健彌、齋藤正果、下田桂子、竹石肇、中村輝夫、水野武威、村山隆男、渡邊公夫、渡邊千艦、 上村 嶺子)

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